先日参加した女子会。明女と略すのだが、そのメンバーの一人と田中恒利さんの話をしていて、野福峠に顕彰碑ができた話を聞いた。
宇和の病院の帰り、野福峠を回り道してみた。桜まつりは先週末だったらしいが、今年の桜はまだ。
ここだろうなと思ったところにそれはあった。三つの石碑。中央には「
雑草 田中恒利 顕彰碑」とある。
左にはそれに関連する「決意」と題した文がある。
決意
名も知らぬ雑草にこんなつぶやきを送った
お前らのように・・・
踏まれても うちくだかれても
頭をもたげるその力を 学び取りたい
お前のように・・・
美しい花だと言われなくても
自然の美しさを誰にもおしえる
名なし草の尊さを身につけたい
お前のように・・・
根強く たくましく
みんなの力をよせ集めて
南予に革新の固い土壌をつくりたい 右には氏の経歴。その裏に顕彰碑建立趣意書。少し長いが引用したい。
田中恒利先生 顕彰碑建立趣意書
西予市名誉市民の田中恒利先生が平成26年1月12日88歳で逝去されてより2年2ヶ月が過ぎました。
先生は「南予から革新を」「農民の声が届く農政」を掲げて井谷正吉代議士の後継者として、昭和44年の衆議院選挙で初当選も果たすも、その後三回の選挙に苦杯ををなめ、昭和55年の選挙で返り咲き、平成8年に政界を引退するまで19年間国会議員として活躍しました。
先生は返り咲くまでの8年間は、雨の日も風の日も南予の隅々まで廻り、労働者や農漁業者等の汗して働く者の意見を聞きました。その情熱と努力が「常さんを国会へ送る運動」として実を結び、以後連続4回当選しました。この運動を通して我々は燃え、多くのことを学びました。この運動は皆様の中にも記憶に留まっていることと思います。
国会議員の多くが生活の拠点を東京に移す中、先生は地元を拠点とし、金帰火来の生活を続け、南予の人たちの思いを国会に送り続けたのです。先生には青年団や農協や労組の優れた仲間や友達、それに生まれた郷土への熱い思いがありました。人々の思いを聞きそれを政治に反映させる、政治の原点を忠実に守り通しました。
私共は田中先生の足跡を記す碑を建立して、後世に語り継ぎたいと顕彰碑を建立する。
平成28年3月吉日 何度かお会いしたことがある。引退された後、
酒席でお会いした時、「玉津の〇〇です」と姓を名乗ると「◇◇くんの息子さんか」と父のファーストネームを言ってくださったのが嬉しかった。
私の父も若い頃は青年団活動をしていた。その頃の青年団は政治活動に燃え、県の社会教育委員会から青年団長が外されたこともあるほど。その頃のおっちゃんらは本当に革新系の人が多かった。
昔は革新系の代議士が地方にも居たのだが・・・。